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玉造を散歩
こんにちは。
工事部のYです。
日曜日の晴れた6月。
娘と散歩しに行こうと手を引いて玉造稲荷神社へ行きました。
10分ほど歩くと急な坂道に差しかかり神社の東入り口付近まで到着。
細い東側石階段から登っていくと、神社の石垣が見えてきます。
そこで何やら気になるモノがありました。
あれ?
石垣から何か出てるなぁ・・・・・・。
この石階段を登れるようになったかと娘の成長を感じ、神社内へと足を進めました。
玉造稲荷神社は、豊臣秀吉の大坂城築城の際に大坂城の鎮守神として崇められた歴史の深い神社だそうです。
秀吉の息子、豊臣秀頼の大きな像もありました。
~玉造稲荷神社 資料から~
慶長3年(1598)8月18日に父秀吉が亡くなった際にその後継者として家督を継いだ秀頼はわずか6歳に過ぎず、慶長19年・20年(1614・1615)に勃発した大阪冬の陣・夏の陣に敗れ、母淀殿とともに大坂城の山里曲輪で非業の最期を遂げた。
秀頼の22年間の短い生涯は、政権簒奪の野望をむきだしにする徳川家康とのせめぎ合いに終始した感がある。
結果として、秀頼は敗者となったが、秀頼が関白の有力候補として大いに将来を嘱望される存在であったことは紛れもない事実で、多くの民衆から支持され、徳川幕府に対峙する一方の雄として、格別の権威をもって大坂城に君臨した。
秀頼公は大阪城の方向を向いて建造されています。
その他にも歴史を感じる数々が祀られていました。
気になっていた「石垣からの出っ張り」について玉造稲荷神社に伺ってみました。
「昔は高殿(舞台)があり、その名残です。
そこから生駒山を眺めることが出来たみたいなんですよ。
江戸時代にはお伊勢参りの玄関口だった玉造。道中の安全を玉造稲荷神社で祈願し旅人は伊勢へ旅立ったですよ。」
とお教え頂きました。
玉造稲荷神社 錦絵の中にも高殿(舞台)が描かれていました。
石垣からの出っ張りの正体は高殿を支えていた土台だったようです。
その後、玉造公園で娘と遊んでいると、何やら看板があることに気づきました。
そこには、旧町名「岡山町」と記載されていました。
今は無い町名が記されています。
神社を出てすぐ近くの公園。
気分が時代をさかのぼっていた私は、すべり台をしている娘を確認しながら、豊臣時代について調べたくなりベンチに腰を下ろしました。
このあたりは武家屋敷が連ねていたそうです。
そこに岡山町の記載がありました。
前田利家、島津家久、鍋島勝茂、宇喜多秀家などの屋敷があったそうです。
教科書レベルの武将の名前がそこに。
まだまだこの町を知っていくと面白そうだな、と一人興奮です。
そのころ娘は汗だくでいい運動をしたあとの様です。
帰ろう。
少しだけ住んでる町の歴史に触れることが出来た散歩になりました。
また散歩行こうね。