社長ブログ
映画「てんびんの詩」に学ぶこと
今月の月例会では十年振りに、映画「てんびんの詩」を見ていただきました。
私もこの映画は十回近く見ており、ストーリーもすっかり分かっているのですが、改めて深い感動を覚えました。
森信三先生は「真理は感動によって授受される」と仰っていますが、人は感動によって真理を知るのです。
「それは映画の話」「それは小説の中のこと」などという人もいますが、芸術作品に私たちの心が動くのは、平板な日常生活の中にあるエッセンスを抽出して、日常生活の中の真理を私たちに示してくれるからに他なりません。
そこに私たちの実生活と共鳴するものがあるからこそ、私たちは芸術に心を動かすのです。
それでなければ人間が芸術を生み出してきた歴史に意味はなくなります。
私が繰り返しこの映画を見て飽きないのは、見るたびに人生の深い真理を思い出させてくれるからなのです。
私がこの映画を見て感じるのは、まず第一に仕事は「我」を手放す修行だということです。
商いは大作少年のお父さんの言葉にあるように、売り手と買い手の思いが釣り合った時に成立するのですが、ともすれば売り手は自分の都合を優先して売ろうとする。
しかし、それでは物は売れません。
買い手の立場に立てて、初めて物を買っていただくことが出来る。
その立場に立てるようになるためには、売り手は自分の都合、即ち「我」を手放なす過程が必要なのです。
その過程が修行なのです。
これは何も商売だけのことではなく、人間関係全般に言えることです。
仕事によって「我」を手放す修行を積めば、人生すべてがうまく回り始めるのはこのためでしょう。
「我」とは、「幼児性」とも「利己」ともいえると思いますが、ある意味人間の本性に根差しており、簡単に手放すことはできません。
それ故、大作少年は苦しんで苦しんだあげくでなければ、それを手放せなかったのです。
相手の立場に立てるようになるということは、自分のことしか分からない「お目出度さ」を削りとることであり、これこそが人間的成長なのです。
二つ目は、人を育てるのは「愛」だということです。
お母さんが大作少年の帰りを夜遅くまで待っていて、大作少年が遅い夕食の箸を取るのを見届けてから自分も箸を取るシーンに、目頭を熱くした人も多かったと思います。
また、帰りの遅い大作少年を心配するお母さんに、お祖母さんが
「自分が心配するのが辛いからといって、息子の成長の機会を奪ってはいけない。
子の修業は親の修業でもある。」
と、諭すシーンに心が動いた人もいたに違いありません。
愛は自分を犠牲にして他を育むものなのだと思います。
しかし、同時に愛は自己犠牲を自己犠牲だと思わせないものでもあります。
子育て然り(しかり)、部下育ても然り(しかり)です。
部下を自分の仕事を果たすための道具にしてはなりません。
部下を育てるために多少の回り道も厭わないくらいの愛情は欲しいものです。
子への愛情がなければ人類が続かないように、会社も部下への愛情がなければ続かないのです。
この映画を見た後、社員の皆さん全員に感想文を出していただきました。
多くの人がこの映画に心を動かし、深いところで理解をされていることをとても嬉しく思いました。
当社の目指す姿「お客様、ビジネスパートナー、社員が相互に有機的な繋がりを持ち、感動的な顧客価値を提供し続ける建設会社」と「てんびんの詩」のテーマには深い関係性があります。
感想文を読んで、当社の目指す姿に近づきつつあるのを感じ、とても頼もしく思いました。