社長ブログ
森信三語録(二)
人生二度なし
森信三先生の哲学の一番の基本といえば、この「人生二度なし」といってもいいでしょう。
人生が二度とないくらいのことは、誰でも知っています。
しかし、この人生における最大最奥の真理を本当に分かっている人がどれだけいるでしょうか。
私も含めて、ほとんどの人が頭で知っているだけで、本当に分かっている人は極めて少ないのではないかと思います。
森先生は次のようにも書いておられます。
未だ死について何らの考えもなく、死に対して何ら腰の決まらないうちは、その人生は、いまだ真実とは言えないと言ってよいでしょう。
すなわちそれはただ起きたり寝たり、食ったり息したりというだけで、その人の真の人生は、まだ始まっているとは言えないわけです。
飲み放題の居酒屋で飲むビールの味と、疲れ切って帰宅した自宅の冷蔵庫にたった一本残っていたビールの味は、自ずから違うはずです。
同じビールとはいえ、それに限りがあるのか否かで、それを飲む人の味わう姿勢が変わってくるのです。
それは人生でも同じことで、今日という日が明日もあり明後日もあり、永遠に続くと錯覚している人と、「人生二度なし」と自覚している人では、人生に対する姿勢は大きく変わってくるのです。
このことは取りも直さず、自分の人生の価値をどう理解するのかの問題なのです。
モノの価値は、ほとんどの場合、その希少性によって左右されますが、自分の人生の希少性をどこまで自覚できるかによって、その価値は変わってくるのです。
二度とない人生の希少性がどれほど切実であるかを理解した時、この人生を何のために使うのかは最大最奥の問題となるはずです。
そこから初めて己の人生の使命や目的や目標が生まれてくるのです。
そして、こうした問題を突き詰めた上で、森先生は次のように仰られています。
人生の意義は、自分の全能力を発揮して、それが人のためにもなるという以外にはない。
全能力を発揮するのは、現実としては、職業を通してする以外にはない。
「以外にはない」と二度繰り返し、たいへん強い口調で、仕事が人生に果たす役割を述べられています。
この強い調子は、森先生にしては珍しいことですが、それだけ伝えねばならないという強い思いを持っておられたのでしょう。
仕事観が揺らいでいる今日、この言葉の意味はしっかりと噛みしめなければならないと思います。
生まれたものには必ず死ぬ時があり、来た者には必ず去るべき時があります。
また会うた者は必ず別るべき時のあるのは、この地上では、どうしても免れることのできない運命と言ってよいでしょう。
同時にもしそうだとしたら私達も自分が去った後の置土産というものについても、常に心を用いるところがなくてはならぬでしょう。
私たちは先人たちの無限のお蔭をこうむって、今の世を生きています。
であるが故に、私たちもまた後から来る人たちのために何かを残して去っていかねばなりません。
私自身そのことを真剣に考えるべき年齢になってきたようです。