社長ブログ
森信三語録(四)
幸福について
如何にささやかなことでもよい。
とにかく人間は他人のために尽くすことによって、はじめて自他ともに幸せになる。
これだけは確かです。
(森信三)
混んだ電車でお年寄りに席を譲ってあげたとき、相手の笑顔に感じるのは、ささやかにせよ間違いなく幸せだと思います。
人のお役に立てた時、何かに貢献できた時、私たちはそんな自分に価値を認める事ができるからこそ、幸せを感じることができる。
この事実が、私たちの幸せの扉を開く鍵なのではないでしょうか。
利己は自分が生存していくための本能ですが、その本能だけでは幸せになり得ない。
この利己の本能を離れた分だけ幸せは生じる。
「他人のために尽くすことによって、はじめて自他ともに幸せになる」の「はじめて」に、利他のみが幸せを生むという森信三先生の考え方が表されているように思います。
幸福とは求めるものではなくて、与えられるもの。
自己の為すべきことをした人に対し、天からこの世において与えられるものである。 (森信三)
私の父(前会長)が亡くなる前、「人生を振り返って幸せだったか」という私の不躾な問いに、病床の父は即座に「幸せだった」と答えてくれました。
晩年はともかく、父の前半生は決して楽なものではありませんでした。
会社の資金繰りや病との闘いなど苦労に苦労を重ねた人生でしたから、父のこの明快な答えに私は驚いたものです。
その時に思い出したのが、森信三先生のこの言葉です。
「自己の為すべきこと」とは、自分が置かれた場所での役割や責任のことですが、それを果たそうとすれば、幸福感からは遥かに懸け離れた心境を往々にして経験しなければなりません。
直接に幸福感を追い求める人は、そんな経験から逃げ出してしまうのですが、それで幸福になれた人を私は見たことがありません。
人生の幸福とは、役割や責任を正面から受け止めて、それを成し遂げようと努力した人に天から与えられるもの。
父の答えは、そのことを私に改めて教えてくれたように思います。
幸福とは縁ある人々との人間関係を噛みしめて、それを深く味わうところに生ずる感謝の念に他なるまい。 (森信三)
オリンピックで活躍した選手たちが、インタビューで必ずといっていいほど、お世話になった人たちに感謝の言葉を述べていました。
さすがに目標に向かって苦労した人たちは「お陰さま」が分かっているのだなと感心したものです。
自分が好成績を残せたことも嬉しいことには違いないでしょうが、それ以上にここに至るまで人に支えていただけた喜び(感謝の念)は、さらに大きなものではないかと思います。
人間は自分一人の限界を思い知るような経験をしないと、人に支えていただいているという「お陰さま」が分からないものだと思うのです。
人生は人間関係を生きているのであって、自分だけの人生など何処にもありません。
人は人間関係によって生かされている存在なのです。
したがって、人生の幸福とは「縁ある人々との人間関係を噛みしめる」ところからしか生まれてこないのです。
そしてその味わいの深浅は、その人がどれだけ苦労の体験をして自分一人の限界を知ったかによって変わってくるのだと思います。
自分の力で生きていると思っているお目出たい人には、人生の味わいは分からないのです。
苦労によって自分の限界を知り、「お蔭さま」に気付くことで、人生の深さに思い至るのです。
たった一度の人生です。
どうせなら深い人生を生きたいものです。