社長ブログ
森信三語録(十一)
成長のエネルギー
最近は入社面接のときに、尊敬する人物について質問することは許されなくなりましたが、以前は学生と面接するときには、必ずと言っていいほどこの質問を投げかけたものでした。
それは思想・信条を調査するという魂胆などでは毛頭なく、その人の成長力を知るためだったのです。
成長したいという願望を持つキッカケのほとんどは、何かに感動することにあります。
それもある人物の生き方に感動し、自分もまたあのようにカッコよく(もちろん見た目の問題ではありません)生きたいという願いを持つことから始まっています。
その人物が小説や映画の中の人であれ、実在の人であれ、その人物からあんな生き方がしたいという感動を受け取ることが、その人のエネルギーとなるのです。
だからその人の成長のエネルギー量を測るには、何よりも尊敬する人物を尋ねることが、番手近な方法になるわけです。
森信三先生は、「敬う」ことについて、次のように述べておられます。
敬とはどういうことかと申しますと、それは自分を空うして、相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。
ところが相手のすべてを受け入れるとは、これを積極的に申せば、相手のすべてを吸収しようということです。
(森信三「修身教授録第」)
「敬う」と言えば、何か意気地のない人間がすることのように思う人もあるかもしれませんが、事実は全く逆なのです。
「自分を空うして、相手のすべてを受け入れる」ということが、エネルギーのない人に出来るわけがないのです。
あの人のようになりたいという強烈なエネルギーがなければ、これまでの自分を否定して、新たな人間に生まれ変わろうというような気持になれるはずがないのです。
そのことについて、森先生は次のようにも述べられています。
自分の貧寒なことに気付かないで、自己より優れたものに対しても、相手の持っているすべてを受け入れて、自分の内容を豊富にしようとしないのは、その人の生命が強いからではなくて、逆にその生命が、すでに動脈硬化症に陥って、その弾力性と飛躍性とを失っている何よりの証拠です。
(森信三「修身教授録第」)
自分の現状を変えるのは、辛い作業です。
50キロで走っている車を100キロにスピードアップするために、アクセルを踏むようなことなのです。
生命力の弱い人は、そんなシンドイことをやるくらいなら、現状の自分のままでいようとする。
あるいは、批評的態度でシニカルに人を見て、心を動かすまいとするのです。
しかし、これでは生きながらに化石化しているようなものです。
これでは生きていることにならないでしょう。
生きるということは、成長しようとすることです。
成長を望まなくなったら、もう生きているとは言えないのです。
そして、成長のためには、目標がなければならない。
目標は尊敬する人物を見つけるところから始まります。
そして、その人のようにカッコよく生きようと努力することによって充実した人生も送れるのです。
さて、皆さんは目標や尊敬する人を持てているでしょうか。
時々は自分にそう問いかけて、自分の生死を確かめなければなりません。