社長ブログ
森信三語録(十ニ)
連関性を生きている
祖先の「血」は、即今この我にありて生きるなり。
この理が真に解った時、初めて人生の意義も解り、同時にこの時初めて、天地の真相の一端にも触れえむ。
(森信三「下学雑話」)
皆さんの中で、曾祖父母の顔や名前を知っている人はどれだけいるでしょうか。
おそらくはそれ程沢山はおられないでしょう。
それどころか、ほとんど皆無かもしれません。
ということは、我々もまた曾孫の時代には皆に忘れられているということになります。
それでは三代経てば忘れ去られるような我々の人生は無意味なのでしょうか。
その答えが冒頭に掲げた森信三先生の「祖先の『血』は、即今この我にありて生きるなり」なのです。
曾祖父母の血は我々にあって生きているのであって、忘れられたからと言って無くなったわけではないのです。
だから我々も三代を経て忘れられたからと言って無くなってしまうわけではないのです。
曾孫の中にあって生きるのです。
我々は連関性を生きている。
時間的な連関性と空間的な連関性の中で生きている。
その中で、「私」だけを取り出すことは、本当は不可能なのです。
にもかかわらず、我々は「私だけの人生」を考えてしまう。
「私だけの人生」と考えてしまうから、忘れ去られた曾祖父母の人生や、忘れ去られるであろう自分の人生に、意味が見い出せなくなってしまうのです。
我々が仏壇や墓の前で手を合わせたときに感じる安堵感は、この祖先との連関性を自分の中に見出すことができるからなのでしょう。
昨今、そんな習慣が少くなっただけ、日本人からその安堵感が失われて行っているのではないでしょうか。
生物学者の福岡伸一さんは、この連関性について次のように書いておられます。
この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係で繋がりあっている。
つまり世界にも、身体にも本来、部分はない。
部分と呼び、部分として切り出せるものもない。
世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。
(福岡伸一「動的平衡3」)
私が皆さんによく話す、「二十代遡れば我々の祖先は二百万人になる」ということや、「マーカーペンがここにあるのは世界中の人が働いているお陰」という話は、この連関性のことなのです。
「当社の目指す姿」は、この連関性が主題なのです。
「お客様、ビジネスパートナー、社員が相互に有機的な繋がりを持ち感動的な顧客価値を提供し続ける建設会社」
会社の仲間を差し置いて、自分一人だけが仕合せになることはできない。
また、私たち社員だけが仕合せになることはできない。
当社との取引をお客様に喜んでいただき、協力会社さんにも喜んでいただくことができて、はじめて我々も仕合せになれる。
そして、感動的な顧客価値を提供し続けることができる。
それが「当社の目指す姿」の内容なのです。