社長ブログ

かけがえの無い者

かけがえの無い者

縫い張りや炊事や、良人に仕え子を育てる煩瑣な家事をするかしないかが問題ではない、肝心なのはその事の一つ一つが役立つものであったかどうかだ、女と生まれ妻となるからは、その家にとり夫や子たちにとって、かけがえの無いほど大切な者、病気をしたり死ぬことを怖れられ、このうえもなく嘆かれ悲しまれる者、それ以上の生き甲斐はないであろう

(山本周五郎「日本婦道記 風鈴」)

 

山本周五郎は私の大好きな作家です。

山本周五郎作品で文庫本になっている三十数冊はすべて読んだほどです。

中でも「樅ノ木は残った」や「虚空遍歴」などは三回以上読んだでしょうか。

睡眠不足になるくらい夢中になって読んだものでした。

 

ここに引用した「日本婦道記」は、山本周五郎の短編小説の中では一番の傑作であろうと思います。

この短編集は、戦争中から終戦直後にかけて書かれたものですから、ここに描かれている女性の姿は、現在では受け入れにくいものであるかもしれません。

しかし、ここで私が取り上げたいのは、男女の役割の別ではなく、共通の「生きがい」についての問題です。

 

この「風鈴」の主人公、加内弥生は十五の年に父親を亡くし、親類の助けを借りながらも二人の妹を苦労して育て、幸い良縁を得て高禄の家に嫁がせます。

その二人の妹たちの驕奢な生活ぶりと比べて、いかにも慎ましやかな自らの生活に、弥生は些かの虚しさを覚えて心が惑うこともありました。

そんな時、妹たちの嫁ぎ先が後押しする出世話を、弥生の良人は次のように言って上役に断ります。

 

たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います、人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません

(山本周五郎「日本婦道記 風鈴」)

 

この良人と上役の会話を立ち聞きした弥生が、心の惑いを断ち切るのが、冒頭に掲げた一文です。

「生きがい」とは何かということは、大変難しい問題です。

確かに社会的に地位が高いということも、ある意味では大事な要素になることもあるでしょう。

しかし、そうしたチャンスに恵まれるか否かは、人の計らいではなく、天の計らいとも言えるでしょう。

家庭にしろ、職場にしろ、人が今の場で生きているのは、縁によってあるのであり、必然ともいえるのではないでしょうか。

 

それでは人の「生きがい」は、チャンスや縁によって決まるのか。

良家に嫁ぎ、華やいだ生活をしている妹たちだけに生きがいはあるのか。

決してそうではない筈です。妹たちを嫁がせるために慎ましい生活をした弥生にも生きがいは平等に、いやそれ以上に与えられている。というのが、山本周五郎の答なのです。

 

山本周五郎は、人が天の計らいで置かれたそれぞれの場所で、「かけがえの無いほど大切な者、病気をしたり死ぬことを怖れられ、このうえもなく嘆かれ悲しまれる者」になることこそが、生きがいなのだと言を強くして言っているのです。

そして、かけがえの無い者になるかどうかは、人の計らいなのです。

 

「かけがえが無い者」になるのは、義務や責任を果たすことによって、そうなるのです。

権利を享受する人はいくらでも代わりがいますが、置かれたその場で義務や責任を果たすのは、あなたしかいないのです。

だから、義務や責任こそが人を「かけがえの無い者」にし、「生きがい」を与えるのです。

 

人は人のお役に立つことによって自分の存在意義を確認し、自分に価値を感じることができるのです。

権利を享受し、人頼りに生きることは確かに楽ではありますが、そこに「生きがい」や幸せを見出すことは出来ないのです。

自分の置かれた場所で、かけがえの無い者になること。

お客様や同僚、そして取引先に頼りにされる存在になること。

 

それこそが大事なのではないでしょうか。