社長ブログ
森信三語録(十七)
人を育てる(2)
生徒でも聞かせようとすると、かえって聞かぬものなり。
先ず自己に向かって言うを自ら聞き、一語々々を吟味し行くが可ならむ。
(森信三「下学雑話」)
子供でも部下でも、親や上司が言って聞かせることをすぐに聞き届けてくれるのなら苦労はありません。
親、上司の言うことをすぐに分かってくれるほどの子供や部下であれば、彼らは既に親、上司のレベルに達していると言っていいのです。
言って聞かせていることを分かってくれないからこそ、親や上司の存在価値があるのです。
子供や部下は、親や上司が口で言っていることではなく、その本心を見ようとしているのですから、言って聞かせる方こそが、良く理解し実践できていることが肝心なのです。
それ故、自分が聞かせようとしていることを、自らに問いかけることから始めなければならないのです。
人を育てる道は、何よりも育てる方が育つ道であるわけです。
教室の静けさは教師自身、満を持して放たざるていの力を持つことにより、初めて保たるるなり。
されば子どもらを静かにさせようと思うこと自身が、すでに心の隙なり。
かく心に隙ある教師が、教壇上にていかに焦慮すとも、生徒の鎮まる道理はなし。
内に充実する人格の現前そのものが、初めて子らを鎮めうるなり。
(森信三「下学雑話」)
盛和塾北大阪の設立者で、私の経営の師ともいえる欠野アズ紗さんが、ある荒れた高校に招かれて講演された時のことです。
欠野さんが登壇された途端、会場が水を打ったように静かになり、その後生徒たちはずっと話に聴き入っていたそうです。
講演後、その高校の教師たちが「我々の話を一切聞こうとしない生徒たちが、どうしてあのように熱心に話を聴いたのでしょうか」と首を傾げていたそうですが、それは生徒たちが欠野さんの「満を持して放たざるていの力」を感じ取ったからに他ならないでしょう。
稲盛和夫さんも、盛和塾で我々に、「経営者なら社員に惚れさせんかよ」とよく仰られていました。
これもまた、理屈ではなく人格をして社員を感化せよということであったと思います。
京セラの発展の原動力は、やはり稲盛和夫という人物にあったというべきでしょう。
子供や部下を、親や上司の権力で指導しようとしても限界があります。
権力では彼らの管理は出来ても、本当の意味での成長を促すことは出来ないのです。
それ故、ここでもまた、子育て、部下育てには、親や上司の人格が必要だと言えるのです。
子育て、部下育てのために、育てようとする方が成長しなければならないのです。
そして、我々は次世代を育てようとする中で、成長させてもらうのです。
真の教育は、我が教えつつある生徒が、他日その専門の職分において、それぞれ第一流の指導者になりて、国家社会に奉仕せむことを期すべきなり。
この気魄この見識なくしては、教育の真に徹するはずなし。
(森信三「下学雑話」)
教師の職責は、教室内において教科を教えることにあると、大方の人は考えています。
しかし、それだけのことなら、新米の教師であっても数年もすれば、その職責を果たすことはできるだろうと思います。
しかし、森信三先生は、その程度では教師の職責は果たせていないと考えておられたのです。
教育の目的は国家社会を支えていく人材を育てることにあり、教師たるものその目的に向かって仕事をせねばならぬ。
そう言われているのです。
我々の人材教育でも同じだと思います。
部下に聞かれたことを教えること、あるいは技術的な指導をすることに止まらず、彼らが将来森長工務店を背負って立ち、多くのお客様のお役に立てること、そしてさらには建設業界を変えるような仕事をすることを未来に描いて、彼らの指導に当たることが必要なのです。
子供や部下は我々の未来に他なりません。
我々も親や先輩に育てられてきたことを思えば、彼らを育てるのは我々の使命であり喜びでもあるのです。
そして、育てる中で自らも成長を果たしていく。
それが生き甲斐ある人生というものではないでしょうか。