社長ブログ
「ぼくの命は言葉とともにある」
福島智さんは、九歳で失明し一八歳で聴力も失い、全盲ろう者となりました。
しかし、そのハンディを克服し、全盲ろう者として日本で初めて大学に進学し、現在は東京大学の教授を務めておられます。
この方の著書「ぼくの命は言葉とともにあった」には、とても深い感動を覚えました。その中の一文を次に紹介します。
失明当時まだ小さかったこともあってか、私は悲しみというものをほとんど感じなかった。
光がなくても、この世界には音という大きな味方があったからだ。
音楽もあればドラマもある。盲人野球に汗を流すこともできるのだ。
しかしこうしたものは、失聴とともにすべて私の前から消えてしまった。
ただ残ったものは、海の底の音のようないく種もの耳鳴りだけだった。
そしてもっとも私を苦しめたのは、人と話せなくなったということだ。私は孤独だった。
日記を書き、読書に没頭し、なんとかして気を紛らわそうとした。
でもその結果は寂しさを募らせるだけだった。
「私」という人間がこの世界に存在しているのだという自覚が、失われていくように思われた。
限定のない真空の中で、私は半ば死にかけている自分の精神を感じ、いいしれぬ恐怖感に襲われたものだった。
(福島智「ぼくの命は言葉とともにある」)
失明と失聴によって、福島さんは外界とのコミュニケーションの手段を失ってしまいます。
それは外界とまったく遮断された地下の独房に、一生涯閉じ込められるような孤独であったのです。
そのような外界との接点がすべて失われた状況では、単に外界との連絡が無くなるだけではなく、同時に自分の存在感をも喪われてしまうのです。
この恐怖は経験のある人でなければ理解できぬものだと思います。
福島さんは「もし他者が存在しない世界に生きているとしたら、その世界には、実は自分も存在しないのと同じだ」とも仰っています。
人は他者の存在を実感できることによって、初めて自己の存在も実感できるのです。
この福島さんの体験から教えられるのは、私たちは自分というものを他者との関係において認識しているということです。
他者を認識できなくなった途端に、自分の存在も消えてしまうのです。
要するに、自分一人の人生などどこにも在りはしないのです。
私たちは他者との人間関係を生きているのです。
そうだとすれば、いい人生とはいい人間関係を生きることだということになります。
そして、家庭にあっても、職場にあっても、地域にあっても、いい人間関係をつくることが、仕合せな人生だということになるのではないでしょうか。
当社の理念には、人間関係に関する記述がいくつも出てきます。
それは以上述べてきたように、いい人間関係こそが人を仕合せにするという認識が基本にあるからに他なりません。
現実の世界はたいへん厳しいし、必要とする人間関係ほど時には厄介ですから、こうした理念を実現するのは簡単なことではありません。
福島さんは失明失聴の後、世界で初めて指点字という方法を発明されて、コミュニケーションを取り戻し、絶望のどん底から甦られます。
しかし、健常者の私たちに比べれば、今なお大きなハンディキャップと闘っておられのです。
それを思えば、私たちが為すべき努力は容易いと言えるのではないかと思います。
福島さんはこの本の最後に次のように述べられています。
考えてみれば、人は皆、直接、他者の本質を把握することはできません。
できるのは、互いの魂にそっと触れ合うことだけです。
そうであればなおのこと、互いに触れ合うことを大切にしていきましょう。
このような境涯の中でも、立派に生きておられる福島さんのことを思えば、私たちもより良き人生のためにもっと真摯に努力できるのではないでしょうか。