社長ブログ

無私であること

無私であること

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。

此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

(南洲翁遺訓 三〇)

<現代語訳> 

命もいらない、名声もいらない、官位も金もいらないという人は扱いに困るものだ。

しかし、このように扱いに困るほど私心のない人でなければ、困難を共にして国家の大業は成し遂げられないのだ。

 

「南洲翁遺訓」は西郷隆盛の言行録として、もっとも著名なものです。

しかし、これは西郷本人が書いたものでもなければ、薩摩の人間が書いたものでもなく、薩摩や江戸から遠く離れた東北の庄内藩の人の手によるものなのです。

 

庄内藩は幕末には江戸幕府の側に立ち、江戸の治安を脅かしていた薩摩藩の江戸藩邸の焼き討ちまで行い、さらに戊辰戦争においては盟友の会津藩が降伏した後も、最後まで官軍に頑強に抵抗しました。

しかし、その庄内藩も会津藩降伏後は、藩民に戦火が及ぶことを憂慮して、遂に降伏を余儀なくされたのでした。

これほどまでに官軍に楯突いたのですから、官軍からの報復は苛烈を極めることを覚悟していたのですが、意外なことに当然の武装解除も行われず、帯刀まで許されるという温情をもって遇されたのです。

庄内藩士たちは不思議の感を強く持ったのですが、後にその背後に庄内藩の忠誠心や敢闘精神を評価する西郷隆盛の意向があったのを知り、大いに感激します。

そして、西郷の人物に学ぶために、多くの藩士を薩摩に留学させたのでした。

その留学生たちが西郷から見聞きしたことを、一冊にまとめたのがこの「南洲翁遺訓」なのです。

 

西郷の人物を紹介するために、前置きが長くなってしまいましたが、明治維新でも最大最高の人物とも言える西郷を知るために、この「南洲翁遺訓」は欠くべからざるものです。

そして、この「遺訓」の中でも、冒頭にあげた文章はもっとも有名な一文です。

西郷が「始末に困る人」と言っているのは、江戸城無血開城に命を懸けた山岡鉄舟のことです。

官軍の江戸城総攻撃を数日後に控える中、山岡は単身で敵の大軍の中に分け入って、幾つもの死地を乗り越えた末に西郷に直談判し、幕府側の譲れぬ条件であった徳川慶喜の身分の保証を西郷に認めさせたのです。

 

この会談で西郷は、徒手空拳で独り敵の司令部に乗り込んできて、「この譲歩の要請を受けられないのであればこの場で俺を切れ」とまで言った山岡の私心のない人物にぞっこんほれ込みます。

ほれ込んだが故に、天皇の承諾まで得ていた講和条件を、独断で変更し山岡に譲歩するのです。

官軍が勢いに乗り、圧倒的に有利な状況であったにもかかわらず、譲歩の決断をするのは、いかな西郷にとっても賭けであったと思います。

 

こうして江戸城無血開城が実現するのですが、この会談の当事者が西郷と山岡でなければ、この結果は得られず、江戸は戦火によって焼野原になっていたでしょう。

江戸の町と多くの人の命が救われたのは、まさに山岡鉄舟の無私の精神と、それに共感した西郷のお陰なのです。

それ故に西郷は「この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」と言っているのです。

 

このように江戸城無血開城という「国家の大業」は、西郷と山岡という二人の偉大な無私の精神によって実現したのですが、「国家の大業」とは程遠い私たち凡人にあっても、困難の克服のためには、無私であることが必要なことに変わりはありません。

例えば現場で職方さんに協力してもらわねばならない場合も、普段から無私の精神をもって、全体のために現場運営にあたっているかどうかで、その成否が決まることでしょう。

普段からその人が自分を顧みず、皆のために働いているか否かによって、その人の言うことに耳を傾けてくれるかどうかが決まるのです。

 

稲盛和夫さんは第二電電(現KDDI)立上げの際に、何か月のもの間、繰り返し「動機善なりや、私心なかりしか」と自問をしたと言います。

それは金や名誉などの私心ではなく、無私の精神から出たものでなければ人々の協力は得られないという思いがあったからです。

それほどに自己中心性を手放し、無私の精神のもとに事を行うということが、事の成功のためには必要なのです。

仕事が困難であればあるほど、その仕事を行う人の私心の無さが問われるということを忘れてはならないのです。