社長ブログ
安きに居りて危うきを思う
古(いにしえ)自(よ)りの帝王を観(み)るに、憂危(ゆうき)の間に在りては、すなわち賢を任じ諫(かん)を受く
安楽に至るに及びては、必ず寛怠(かんたい)を懐(いだ)く
事を言う者、ただ恐懼(きょうく)せしむ。日に陵(りょう)し月に替し、もって危亡に至る
聖人の安きに居りて危うきを思う所以(ゆえん)は、正にこれがためなり
安くして而もよく懼(おそ)る (貞観政要「治世の要諦」)
【日本語訳】
今までの帝王を観ますと、国が危機に瀕した時には、優れた人材を登用し、その意見によく耳を傾けますが、国の基盤が固まってしまえば、必ず心に緩みが生じてきます。
そうなると、臣下もわが身第一に心得て、君主に過ちがあっても、あえて諫(いさ)めようとしません。
こうして国勢は日ごとに下降線をたどり、ついには滅亡に至るのです。
昔から聖人は「安きに居りて危うきを思う」のは、これがためであります。
国が安泰なときほど、心を引き締めなければなりません。
「貞観政要」は、中国四〇〇〇年の歴史の中でも、最も優れた皇帝と言われる唐の太宗が、その臣下と交わした問答を記録したものです。
唐に先立つ隋が、わずか四十年足らずで滅んだのに対し、唐が三百年にわたって繁栄を謳歌したのは、何よりも太宗がその礎を築いたからです。
そして、「貞観政要」は唐の治世に対する考え方を示したものとして、なくてはならぬものでした。
この「安きに居りて危うきを思う」は、唐が三百年もの長きにわたって、その政治を担うために、特に重要な言葉であったと思います。
隋を倒して唐を建国するまでの混乱期は、否が応でも緊張を強いられ、気の緩みは生じないものですが、一旦政権を樹立したとなると、己の権力に過信して、ともすれば精神は弛緩し、放埓になってしまうものです。
それを戒めたのが、この言葉なのです。
京セラフィロソフィーにも「土俵の真ん中で相撲をとる」という節がありますが、これも同じことを言っているのです。
人間は、もう大丈夫だと思った時から、転落への道を歩き始めている。
混乱のさなかでは、その緊張から「一寸先は闇」「薄氷の上を歩いている」という意識は持続できます。
しかし、基盤が固まったと思ったときから、その意識は薄れていくものです。
世の中、いつどこで何が起きるか分かりません。
ごく最近まで、インバウンドが喧伝され、外国人観光客数は四千万人が目標になっていましたが、一月に新型コロナウィルスが中国で発生するや、ひと月にもならないうちに、中国をはじめとする外国人観光客は激減し、倒産する旅館やホテルが出始めています。
あれほど確かに思われていたインバウンドの増加さえも、このように思わぬ障害が出現するのですから、私たちが歩いている道に盤石ということはないのです。
「安きに居りて危うきを思う」も、「土俵の真ん中で相撲を取る」も、単に心構えの問題を言っているのではないのです。
現実の世の中は、すべて「一寸先は闇」であり、「薄氷の上」に他ならない。
そういう厳しい現実認識を手放すなということなのです。
いつ天変地異があるかわからない。
いつ病気になるかわからない。
どんなことでも起こりうる。
それが現実だということを念頭から消してはならないのです。
今、当社は、問題・課題がないわけでは決してありませんが、概ねとても順調な状態にあります。
私が社長になって二十余年。
これほどいい状態にあるのは初めてと言っていいほどです。
それだけに、この先が恐ろしいというのが、私の偽らざる思いです。
良いことばかりが続くはずはないからです。
今、来年度の年次計画を立てていますが、この計画は「安きに在りて危うきを思う」の上になければなりません。
それだけの緊張感をもって、取り組んでいきたいと思うのです。