社長ブログ
幸福について
それは幸福とはいかなるものであるかということが不知不識のうちに村人には感得できていたからである。
本来幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。
祖先の祭祀をあつくし、祖先の意志を帯し、村民一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。
我々の周囲には生活と感情を一にする多くの仲間がいるということの自覚は、その者をして何よりも心安からしめたのである。
そして喜びを分ち、楽しみを共にする大勢のあることによって、その生活感情は豊かになった。
悲しみの中にも心安さを持ち、苦しみの中にも絶望を感ぜしめなかったのは集団生活のお蔭であった。
(宮本常一「家郷の訓」)
この一文はこれまで何度も社内でお話もしてきました。
宮本常一は日本を代表する民俗学者であり、戦前戦後を通じて、何万キロを歩いて旅し、日本人とその生活について研究しています。
その著述は膨大かつ精緻を極めていますが、私が宮本常一に惹かれるのは、何よりもその著述に日本人に対する愛情が満ちていることです。
それ故、いつ読んでも心が暖かくなり豊かになったように感じるのです。
当社の理念を作るときに、まず心に浮かんだのは、この「家郷の訓」だったのです。
「あるべき企業風土」にある「孤立や孤独をつくらない」は、まさにここから取ったものですし、そればかりか私の会社づくりの背景には、「家郷の訓」に描かれた昔の日本の農村生活のイメージがあったのかもしれません。
戦後の高度経済成長とともに、「家郷の訓」に描かれた農村共同体は姿を消してしまい、欧米流の個人主義が幅を利かすようになりました。
確かに日本的な共同体生活は、ある意味窮屈で煩わしいものです。
必要な人間関係ほど、例えば夫婦関係に代表されるように、それが切実であればあるほど、時には煩わしいものにならざるえないのは当然のことです。
しかし、その煩わしさを乗り越えなければ手に入らないものも沢山あるのは事実でしょう。
それは、職場でも、地域でも、ありとあらゆる人間関係に言えることで、「煩わしさ」と「孤立と孤独」とは、相反関係にあると言ってもいいかもしれません。
戦後の日本は、欧米流の個人主義が蔓延し、その分だけ人々が孤立し孤独になってきたように思います。
それが多くの問題を引き起こしつつあり、日本人の心にはポッカリと大きな穴が開いているようにさえ思えるのです。
このような考え方は、日本人特有のものだと私は思ってきたのですが、コロナの自粛生活の間にアドラー心理学について書いた岸見一郎さんの本を読んで、そうではないことを教えられました。
アルフレッド・アドラーはユングやフロイトと並んで、世界の3大心理学者といわれている人ですが、そのアドラーが次のように言っています。
共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標なのです・・・・・・。
われわれは共同体の一員として、そこに属しています。
共同体のなかに自分の居場所があると感じられること、「ここにいてもいいのだ」と感じられること、つまり所属感を持っていること、これは人間の基本的な欲求です。
(岸見一郎「嫌われる勇気」)
ここでいうアドラーの「共同体感覚」とは、宮本常一が述べている内容とほぼ同じものだと考えていいでしょう。
人の人生は、人間関係を生きているのですから、アドラーは共同体感覚を獲得することが、人の幸福には一番大切なことだと言っているのです。
コロナの影響でリモートワークが話題になっています。
中には、これからはリモートワークの時代だという風潮もあります。
しかし、私がテレビ会議をして感じるのは、生活と感情を一にすることができるのかということです。
確かにリモートワークの必要性や重要性も理解できるのですが、それだけでいいという風潮には同意できません。
共同体であるためには、有機的な関係でなければならず、その有機性はリモートワークからは生まれないと思うのです。
宮本常一は次のようなことも書いています。
娯楽は都会人にとっては個々が楽しむことのように考えているけれども、村にあっては自らが個々でないことを意識し、村人として大ぜいと共にあることを意識することにあるのであって、これあるが故にひとり異郷にあっても孤独も感じないで働き得たのである。
人生に自分だけの人生ということはありません。
人生とは人間関係を生きることであって、人生の幸不幸はすべて人間関係によって決まるのです。
人間関係は誰かが自分のために用意してくれるものではありません。
自分で勇気と忍耐をもってつくっていかねばなりません。
真の人間関係をつくるのは、決して容易いことではなく、自らを奮い立たせることも時には必要になります。
しかし、それを乗り越えていかなければ決していい人生は手に入らないのだと思います。