社長ブログ
「私たち」を主語にする
この数日、大阪でもコロナ感染者数が連続して100名を超え、第二波がついに到来したようです。
以前の生活にいつ戻れるのかも分からず、ただただ感染の恐怖に怯えながら生活しなければならないのは、たいへん辛いものです。
しかし、このコロナ禍で改めてはっきり見えてきたこともあります。
それはこの社会は一人一人が互いに影響し合い、支え合いながら初めて成り立っていて、自分一人だけの世界はないということです。
例えば、自分がコロナ感染から安全であろうとすれば、外界とのつながりをすべて断ち切り、完全なステイホームをするしかありませんが、それをいつまでも続けるというわけにはいきません。
外界と少しでもつながって生き延びようとすれば、それに伴って感染のリスクも冒さなければならなくなります。
それ故、自分が安心して暮らせるようになるためには、皆が安心して暮らせるようにならなければならないのです。
手洗い、うがいはもちろんですが、何よりも大事なことは、自分が感染者であることを前提にして、人にそれをうつさないように振舞うということです。
それをすべての人が実行すれば、感染者が少なくなることは間違いありません。
感染症の研究者でもない我々に、大したことが出来るわけではありませんが、手洗い、うがいといった些細なことでも、自分にできることがあれば、それをすることが社会に対する大きな貢献になることを忘れてはならないと思います。
ことほど左様に、人間は集団でなければ生きていけません。
それは一人一人が弱い存在だという以前に、集団でなければその存在さえも許されないということなのです。
社会的動物であることが、人が生きていく上での大前提であり、人生とは人との関係を生きることだということを、この度のコロナ禍は証明したのだと思います。
集団でなければ存在できない故に、私たちはそのプラス面だけでなくマイナス面をも受容しなければなりません。
今回のコロナ禍はそのマイナス面に他ならず、私たちに求められているのは、それを受け容れ、為すべきを為して耐え抜くことだと思うのです。
これは何もコロナ禍だけの話ではありません。
集団である限りは、プラス面だけでなく、必ずマイナス面もあるのです。
夫婦に代表されるように、協力しなければならない関係であればあるほど、その関係は厄介なものです。
密接な関係ほど、自己中心性は発露しやすくなり、人間関係の軋轢は生じやすくなるからです。
それ故、協力関係を築く必要のある集団であればあるほど、その中の一人一人が自己中心性を手放すことを迫られます。
「私」の利益ではなく、「私たち」の利益を第一に考えることが必要になるのです。
集団の一人一人が「私たち」を主語にできない集団は弱くなり、遂には「私」を守ることさえできなくなるのです。
夫婦であれ、企業であれ、国であれ、集団の大小を問わず、それを構成する一人一人が「私」ではなく、「私たち」を主語に考えることが出来るかどうかが、その盛衰を決め、その中の一人一人の幸不幸を左右していくのだと思います。
今回のコロナ禍の行方も、どれだけの人たちが「私」ではなく、「私たち」を主語にできるかに懸っているのだと思います。
他の人はともかく、せめて私たちは「私たち」を主語に考え、社会にささやかに貢献していきたいものです。