社長ブログ
当たり前のもの
私は学生時代から山岳部で山登りに夢中になっていました。
その頃は、危険なことをしている意識はなかったのですが、今から思うとよく無事だったなと思うようなことも幾度かありました。
スキーで斜面を横切っていると、景色が下から上へと動き始め、何事かと思ったら乗った斜面が雪崩れていたこともありました。
岩登りのルートを間違え、途中で完全に行き詰まり、必死で登った壁をそれ以上に必死で降りた経験もあります。
一歩間違えば、即死。
今思い出しても冷や汗が出ます。
私の家族は、三世代同居だったので、大好きだった祖父母の死を若い頃に経験したお蔭で、私は人間はいつか死ぬということも意識のどこかに持っているかもしれません。
それが先に逝く者の後に残る者へのプレゼントなのかもしれません。
戦前の日本では、大家族で過ごし、兄弟も多いのが普通でした。
医療制度が整っていなかったこともあって、老人の寿命は短く乳幼児の死亡率も高く、今と違って死はもっと身近な存在であったろうと思います。
まして、戦争を経験した人たちにとっては、死は日常でさえあったかもしれません。
危険な経験や悲しむべき経験は、本来厭うべきことであり、避けて通れるのならその方がいいのでしょう。
しかし、そんな経験からしか学べないことがあるのも事実です。
あって「当たり前」と思っていたものが、実は「当たり前」のものではなく、有り難いものであったということは、それを無くしたり、無くしかけたりした人でなければ、本当には分からないものかもしれません。
今の教育は、死を教えません。
そればかりか、困難に立ち向かうことさえも教えない。
むしろそれを避けることばかり教えているような気がします。
巨額の財政赤字を減らそうともしない今の日本のポピュリズム政治は、痛みを避けようとする典型だと思います。
避けようと思って避けることが出来るなら、それに越したことはありません。
むしろ正解というべきです。
しかし、困難がない人生などはあり得ません。
死のない人生もあり得ません。
皆がそれがないような振りをして生きているのが今の世の中のような気がします。
森信三先生は「人生二度なし」を生き方の根本に置かれましたが、次のような言葉で表現されています。
念々死を覚悟して はじめて真の生となる
これは死を覚悟するから生の有難さが分かり、人生を大事に生きようと決意することができる。
そう人生の姿勢が決まったときに、はじめて「当たり前」と思っていたものに感謝の念が湧いてくるのです。
また、二宮尊徳はこのように言っています。
人は生まるれば必ず死すべきものなり。
死すべきものといふことを、前に決定すれば生きているだけ日々利益なり。
(現代語訳)
人は生まれれば必ず死ぬものだ。
死ぬという事を覚悟できれば、生きているだけ毎日が利益なのだと分かる。
これは究極の心境と言ってもいいかと思います。
私たちは自分が生きているのは「当たり前」と思っていますが、よくよく考えてみれば、この世に生を受けたことは決して「当たり前」ではないのです。
祖先を20代遡れば、祖先は200万に人なり、その一人一人が命を私につないでくれたのです。
誰か一人でも亡くなっておれば、私はいない。
また、その200万人が100万組の夫婦となったのですが、その一組でも他の人と結婚していたとすれば、自分は生まれていなかった。
そう考えただけでも、自分が今生きているのが「当たり前」でないことは、自明の理だと理解されます。
それが理解されれば、生かされていることの有難さが見えてくる。
一日生きれば一日の利益だと了解されて、多少苦しいことや不愉快なことがあっても、それに耐えていける勇気が湧いてくるのではないでしょうか。
「当たり前」と思っているものが、決して「当たり前」ではなく、有り難いものと知ったとき、私たちは自分で生きているのではなく、生かされていることに気付くことができます。
四苦八苦といわれるように、人生は自分の思ったようにはなりません。
そんな人生を、仕合せに思い本当に明るく生きるためには、「当たり前」のものを有り難いものと思えるようになるしかないのかもしれません。
凡人には遠い道ですが、そこに向かって精進したいものです。