社長ブログ
千人塚
コロナ禍の影響で夜の予定がほとんどキャンセルになり、時間に余裕ができたお蔭で、私も夜にウォーキングをするようになりました。
城北公園を経て、たいていは淀川の川縁を大阪東線の鉄橋まで、時間に余裕がある時には毛馬まで足を延ばします。
その途中必ず立ち寄るのが、城北公園の堤防を上がったところにある千人塚です。
そこで手を合わせてから川べりに向けて堤防を下りていくのです。
夜の千人塚から見る淀川は、対岸の街の明かりを川面に映してゆったりと流れています。
秋が深まった今でも、十月頃に比べればいくら静かになったとはいえ、虫の音も聞こえてきます。
心の落ち着く都会のオアシスといえるかもしれません。
ところが今から七十五年前、この辺りは阿鼻叫喚の巷と化していたのです。
太平洋戦争末期になると、日本の敗色は一段と濃くなり、大阪でも昭和二十年三月から終戦の八月までの間に、計八回の大空襲を受けることになります。
その三回目は六月七日午前十一時から午後零時半まで、四百九機のB29が大阪市東部に狙いを定めて爆弾、焼夷弾二千六百トンの雨を降らせました。
工場や民家は猛火に包まれ、命からがら逃げてきた人々は城北公園や淀川河川敷に避難しました。
そこへ戦闘機P51が機銃掃射を浴びせてきたのです。
その攻撃は幾度も幾度も執拗に繰り返され、数百人から千人の無辜の老若男女がなぎ倒されるようにして亡くなったのです。
その亡くなられた人々を悼んで故東浦栄二郎さんが建てられたのが、この千人塚なのです。
この碑は私が子供の頃には、堤防の中腹にあったように思いますが、私には戦争は遥か昔の出来事のように思えて、城北公園に遊びに行っても、さほど気にしたことはありませんでした。
母に
「あんたが戦争を知らないのが不思議に思える。
爆弾の落ちてくる『ヒュー』って音がどれほどおそろしかったか」
と言われても、歴史的な出来事で自分には関係がないと思っていたものでした。
ところが最近になって、この城北公園での大惨劇が私の生まれるたった八年半前の出来事だったという事に気が付いたのです。
迂闊と言えば、とても迂闊なことです。
子供の頃の八年といえば、永遠とも思えるような長い時間ですが、六十年以上も生きてくれば、八年などつい最近の出来事です。
そう考えたとき、はじめてこの城北公園で亡くなった人たちの無念が私の心を動かしたのです。
他人ごとではなく、同時代の人たちが味わった思いとして感じられ、それ以来、千人塚の前を素通りできなくなったのです。
最近は歴史の大流行で、テレビをつけても歴史番組がよく流れています。
信長がどうした、光秀がどうしたという話は、それはそれで面白いのですが、大事なことは信長や光秀が活躍した時代を、他ならぬ私の祖先も生き抜いて、私に命をつないでくれたのだということです。
歴史は自分とは無関係に営まれたのではなく、何らかの形で自分の中に生きているのです。
七十五年前の惨劇に倒れられた人たちも、私たちと無関係ではありません。
幸い私に列なる人に犠牲者はいませんでしたが、その中に私の父や母がいてもおかしくはなかったのです。
命のつながりとして歴史を見ることで、自分の人生が自分だけのものではないことが了解されてきます。
先人たちが我々のために遺してくれたもの、託していったものに気付くことで、我々が後に来る人たちのために、遺すべきもの託すべきものが見えてくるのではないでしょうか。
それらが我々の役割であり使命であり、そして、我々の人生を意味づけるものになるのだと思います。
また、今夜もウォーキングに出かけ、千人塚に手を合わせたいと思います。
そして先人たちの苦難と努力の上に、我々の生活が成り立っていることを改めて意識し、微力ながらも私がこれから為すべきことについて考えてみたいと思います。